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前川喜平の「奇兵隊、前へ!」(その10・11)

(その10)義務教育費の歴史…市町村義務教育費国庫負担法まで

 義務教育費国庫負担金を、三位一体改革の補助金削減の対象にするのは間違っている。
 それは、義務教育費国庫負担制度が、明治以来どのような歴史を経て構築されてきたものなのかを振り返ることによって、よりよく理解されるであろう。

(1)学制発布から明治10年代 … 住民負担の時代
 明治5(1872)年の学制発布以後、小学校教育費は設置者である学区が負担していたが、明治6年から14年まで、政府は、府県に対し小学扶助委託金(明治10年からは小学補助金)を交付し、小学校の設置者である学区に対して援助させた。小学補助金は、明治13年の改正教育令によって明治14年限りで廃止されたが、国庫補助に代わって、地方税を財源として府県が行う小学校費補助が増えた。しかしこの時期、国と府県からの補助金はあわせて学校教育費の1割程度を占めるに過ぎず、学校教育費負担の大部分は、学区内集金、寄付金などの形による住民負担に頼っていた。小学校でも授業料を徴収する場合があったが、その比率は数%にとどまっていた。

(2)明治18年教育令から明治20年代 … 受益者負担の時代
 明治18(1885)年の改正教育令は、当時の不況による町村収入の減少に対応するために教育費節減を図ったが、その際文部省の通達により、町村立小学校では授業料を徴収するものとして、事実上の受益者負担主義を打ち出した。翌年、森有礼文部大臣の下で公布された小学校令第6条は「父母後見人等ハ小学校ノ経費ニ充ツル為メ其児童ノ授業料ヲ支弁スヘキモノトス」と定め、受益者負担主義を明確に規定した。このような受益者負担主義の導入により、明治16年にいったん51%まで上昇した小学校への就学率が、明治20年には45%まで低下している。
 明治23年の改正小学校令は、設置者負担主義に立っていたが、授業料は依然として徴収されており、学校教育費の20%以上を占めていた。授業料負担が重かったため、就学率はなかなか上がらず、明治25年においても55%にとどまっていた。このため、地方行政関係者や教育関係者から義務教育への国庫補助の復活を求める要望が盛んに行われた。

(3)市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法(明治29年)及び市町村立小学校教育費国庫補助法 (明治33年) … 国庫補助制度と義務教育無償制の確立
 義務教育への完全就学を実現するためには、授業料を廃止して無償制を実施する必要があった。そのため、時の政府(井上毅文相)は、明治26年6月、初等教育への国庫補助と授業料の低減・廃止という方針を定め、同年、勅令により尋常小学校において「授業料ヲ徴収セザルコトヲ得」と定め、授業料徴収の義務づけを廃止して、徴収するかどうかを市町村の裁量に委ねることとした。
 授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代わる財源を国が保障する必要があった。そのため、政府は明治26年、小学校教員の年功加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」案 を帝国議会に提出し、明治29年、同法が制定された。補助金額は30万円だった。また、明治32年には、日清戦争の賠償金のうち1000万円を教育基金とする「教育基金特別会計法」が制定され、その利子を普通教育の改善に用いることとした。さらに、明治33年には、国庫補助対象経費に特別加俸を加えて「市町村立小学校費国庫補助法」が制定された。補助金額は当初100万円で、のち明治44年には200万円に増額された。こうした義務教育教員給与費に対する国による財源保障制度の整備にあわせて、明治33年、第三次小学校令が制定され、ついに小学校の無償制の原則が確立された。
 このような無償制の確立により小学校への就学率は急速な伸びを見せ、明治33年には80%を超えて81・5%に、明治35年には90%を超えて91・6%に、明治38年には95%を超えて95・6%に達している。
 このような歴史的事実が示すのは、義務教育への完全就学の実現のためには無償制の確立が必要であり、無償制の確立のためには国による財源保障措置が不可欠であったということである。

(4)市町村義務教育費国庫負担法(大正7年)とその増額運動 … 定額国庫負担制度の成立と教職員給与改善及び地方財政の健全化
 義務教育の無償制の確立は、小学校の設置者である市町村による公費負担の増大をもたらした。さらに、明治41(1908)年には、義務教育年限が4年から6年に延長されたため、市町村の負担はさらに増大した。町村の財政においては、税収入に対する教育費の割合が、明治20年代中ごろにはすでに50%に近づいていたが、明治30年代には50%を超え、明治40年代には60%を超えるに至っていた。
 このような町村財政における過重な義務教育費負担は、町村の財源の不足と小学校教職員の低水準の給与という2つの問題を突きつけることになった。
 このため、町村長を中心とする地方行政関係者からは地方財政の負担緩和のため、また教育界からは教職員の待遇改善のため、小学校費の国庫支弁を求める声が高まった。
 こうした状況の下、大正6(1917)年9月に内閣直属の諮問機関として設置された臨時教育会議では、義務教育費負担の在り方が最初の検討課題としてとりあげられ、同年11月には、教員給与費の国庫負担を建議した。この建議では、市町村立小学校の教員の俸給を、国庫と市町村の「連帯支弁」とし、国庫支出額は定額であるが「教員俸給ノ半額ニ達セシムコトヲ期スヘシ」とした。国庫負担の目的としては、(1)地方財政の緩和、(2)教員の増俸の両者を同時に行うべきであるとされた。
 この臨時教育会議の建議を受けて、大正7(1918)年市町村義務教育費国庫負担法が制定された。この法律は、義務教育費を国と地方がそれぞれ責任を負って分担するという原則を確立したものとして、画期的な意義を持つものであった。負担金額は初年度の大正7(1918)年度では1000万円で、小学校教員俸給の2割にあたり、臨時教育会議の建議した教員俸給の半額には及ばなかった。さらに、第一次大戦後のインフレーションの影響を受けて小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は年々低下し大正11(1929)年には8%程度になってしまった。
 この間において、大正10(1921)年、原内閣は臨時教育行政調査会を設け、教員の削減などによる義務教育費節減計画を打ち出したが、世論の非難を浴びて挫折した。
 一方、三重県七保村の大瀬東作村長らの町村長は、大正10(1921)年に全国町村長会(現在の全国町村会の前身)を結成し、義務教育費国庫負担金の増額を求める運動を展開した。また、帝国連合教育会などの教育団体も国庫負担金増額を求める運動を行った。こうした国民の声を受けて、大正12(1923)年には、国庫負担金額を一挙に4000万円に引き上げる法改正が行われた。
 昭和3(1928)年の第1回普通選挙にあたって、政友会は「地租を市町村に移せば恒久財源を得て市町村民の負担が軽くなり従って地方は発展す」として市町村への税源移譲を主張した。当時の選挙用ポスターには「地方に財源を与うれば完全な発達は自然に来る」「地方分権丈夫なものよひとりあるきで発てんす」という言葉のもとにランニングする健康な男の絵が描かれてあり、「中央に財源を奪いて補助するは市町村を不具者にするもの」「中央集権は不自由なものよ足をやせさし杖もろう」という言葉のもとに杖をついて歩く痩せた男の絵が描かれてある。ただし、義務教育費については「地域せまき町村に対しては例外を設け教員の俸給を補助す」という特別の配慮が示されていた。
 これに対して民政党は「義務教育費国庫負担の主張」という選挙用ビラを作って、教員給与費全額の国庫負担を主張した。「地方負担軽減の根本問題」として、まず「地方教育費の負担過重」という現状認識を示している。「各地方財政はその約八割にも及ぶもののある程大部分は教育費で占められて居る。町村税が重いと云うことは、その町村の教育費が重いと云うことである。これが農村が疲弊する重大なる原因である」という現状認識である。その上で、「教育の独立神聖」を挙げ、「市町村の貧富の程度に依って、諸施設の完備を図ることが出来ず、優良な教員を傭うことが出来ず、教育の独立神聖は破壊せられ、天晴将来我が大日本帝国を双肩に担うべき第二の国民たるべき児童をして悲惨な教育を受けしめなければならない状態にあるのである」としている。そして「我が民政党の主張」として次のように述べている。
「我が民政党は義務教育費教員俸給一億四千万円の全額国庫負担を主張する。即ち現代の国庫補助金額七千五百万円を増加して之を全額に達せしむるのである。抑も此の義務教育費全額国庫負担なる問題は古くから識者間に主張せられて居た問題で、社会政策としても最も重要なものの一つである。吾人も又夙に其の必要を認め国庫負担金増額を主張して今日に及んだのであるが、愈々地方財政の事情之が根本的解決の必要に迫られつつあるを思い茲に断乎として之が実現を期せんとするのである」
 選挙の結果は、政友会217議席、民政党216議席という伯仲したものであった。元陸軍大将田中義一を首班とする政友会内閣は、満州で陸軍が起こした張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の事後処理について田中首相が昭和天皇の叱責を受けたことをきっかけに、昭和4(1929)年7月総辞職し、代わって民政党浜口雄幸内閣が成立した。昭和5(1930)年2月の総選挙で466議席中273議席を獲得した浜口民政党は、同年5月、市町村義務教育費国庫負担法を改正し、国庫負担金を1000万円増額して8500万円にした。この時点で小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は半額を超えて52%に達した。
 このような大正期から昭和初期にかけての義務教育費国庫負担制度の確立とその拡充の歴史は、極めて示唆に富んでいる。
 まず、義務教育費負担が地方財政にとってきわめて過重であったという事実がある。そのような状況を解決する方法として、臨時教育会議の建議に基づき国庫負担制度が導入された。しかし、その後政友会は、教員の削減による義務教育費の削減を図ったり、税源移譲によって市町村の自主財源を拡大して義務教育費を負担させようとしたりした。それに対して、民政党は国庫負担の拡充により義務教育財源を安定させるとともに、市町村財政を義務教育費負担から解放することで市町村財政の自由度を高めようとした。それは全国町村会を中心とする地方の要求にも沿ったものであった。民意は民政党に軍配を上げた。
 こうした歴史的経緯が示していることは、教育水準の維持向上と地方財政の健全化のためには、国による義務教育費に対する財源保障の拡大こそが、理に適い、民意に適った方策だったという事実である。(つづく)



(その11)義務教育費の歴史…義務教育費国庫負担法の成立と変遷

 義務教育費国庫負担金を、三位一体改革の補助金削減の対象にするのは間違っている。
 義務教育の無償制と機会均等を保障するための財源保障制度である義務教育費国庫負担制度と地方財政の財政力格差を是正するための財政調整制度である地方交付税制度の、それぞれの役割と必要性について考えるためには、昭和15年の改革の意味を考えることが有意義である。(番号は前回からの続き)

(5)義務教育費国庫負担法(昭和15年) … 2分の1国庫負担制度の成立と教職員給与財源の安定化
 昭和初期におけるたび重なる経済恐慌とその後の軍需景気は、地方間の富の偏在と市町村間の財政力の格差を著しく拡大させた。財政力格差は教育費支出水準の格差として表れた。ある研究によれば、昭和3(1928)年当時、児童1人当たりの小学校費は、東京府が最高で65円81銭、沖縄県が最低で17円24銭だったとされる。このような教育費支出水準の格差は、財政力の弱い町村において、教員給与の支払い延滞や強制寄付による割引支給という形での教員給与の削減を急速に増大させた。
 このような状況に対処するため、国は昭和7(1932)年、市町村財政の窮迫の緩和と教員俸給不払いの防止を目的として、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法を制定し、毎年一定額(当初1200万円)を市町村に補助することとした。義務教育費国庫負担金の配分においても、市町村の財政力に応じた配分がなされていたが、この臨時国庫補助金の配分にあたっては、財政力の弱い市町村に対しより重点的な配分を行った。このような措置は、義務教育費に対する財源保障というよりは、地方間の財政格差に対する義務教育費を通じた財源調整の仕組みを導入したものと見ることができる。
 しかし、このような方法によっては、①義務教育費の財源保障、②市町村間の財政調整という2つの目的のいずれをも十分に達することはできなかった。
 このため、義務教育費の財源保障のためには、市町村負担の制度そのものを改めて、教職員給与費を府県と国に分担させるとともに、市町村間の財政力格差の是正のためには一般的な財政調整制度を設けるべきだという意見が、教育関係者や地方財政関係者から強く主張されるようになった。
 こうした考え方のもとに、昭和15(1940)年、義務教育の教員給与費(当初は俸給のみ)を府県の負担とし、その2分の1を国庫負担とする義務教育費国庫負担法が制定されるとともに、市町村間の財政力格差を是正するため、本格的な地方財政調整制度として地方分与税が創設されるに至ったのである。
 さらに昭和18年には、俸給以外の給与(年功加俸、特別加俸、賞与、死亡賜金)と赴任旅費も市町村負担から道府県負担に移され、国庫負担の対象に追加された。
 このような義務教育費国庫負担法の制定に至る歴史は、義務教育費国庫負担制度の本来の機能は義務教育のための安定的な財源を保障するという財源保障機能であり、地方間の財政力格差を是正するという地方財政の財政調整機能をこの制度に求めることは適当ではなく、別途一般的な財政調整制度を設ける必要があったという事実を示している。
 昭和15年以前の義務教育費国庫負担制度が、現在の地方交付税につながる財政調整制度の源流として論じられることがあるが、それは上に見たように義務教育費国庫負担金が市町村の財政力に応じて交付され、義務教育費の財源保障の形を借りて市町村間の財政力格差を是正する効果を持っていたからである。昭和15年の改革は、義務教育費国庫負担金から財政調整の機能を分離して地方分与税制度を作るとともに、義務教育費国庫負担金を義務教育の財源保障制度として純化したところに大きな意味がある。この新国庫負担制度は、市町村からは「全額国庫負担」の実現として歓迎された。戦前の府県は国の出先機関だったから、国2分の1・府県2分の1の負担は、実は広い意味での国の内部における負担関係であって、市町村から見れば、国が全額を負担することによって、市町村を義務教育教員給与費負担から完全に解放したことを意味するものだったのである。

(6)義務教育費国庫負担法(昭和28年) … 義務教育費に対する国による財源保障制度の必要性を再確認
 戦後、わが国は国も地方も極めて厳しい財政状況の下で、新制中学校を創設して義務教育の年限を3年延長するという財政的には無謀ともいえる改革を行った。新制中学校の校舎建設に当たっては、予定された国庫支出が行われなかった事情などにより、各市町村において増税や強制寄付などを余儀なくされ、その責任を問われた市町村長の辞職や自殺が相次ぐという事態も生じた。しかし、それでも何とか新制中学校制度を出発することができたのは、教員給与費についてはすでに国庫負担制度が存在しており、ドッジ・ラインの下での定員定額制(昭和24年度)による抑制措置の影響はあったものの、新制中学校に教職員を配置するための財源はともかくも保障されていたことに負うところが大きいと考えられる。
 しかし、昭和25(1950)年には、前年のシャウプ勧告に基づいて、義務教育費国庫負担法が廃止され、新たに設けられた地方財政平衡交付金に吸収されてしまった。このとき昭和25年度予算において地方財政平衡交付金に吸収された補助金・負担金305億円のうち、義務教育費国庫負担金は247億円(81%)を占めていた。義務教育費国庫負担金が廃止されなければ地方財政平衡交付金を創設することはできなかったといって過言ではない。平成17年の現在、義務教育費国庫負担金を主な財源として地方への税源移譲が行われようとしているのは、この昭和25年の出来事の再現のように感じられる。
 義務教育費国庫負担制度の廃止にあたり、義務教育の財源を確保するため、地方財政平衡交付金制度の中で義務教育費として算定した額は義務教育費として支出しなければならないとする標準義務教育費の確保に関する法律案が閣議決定されたが、総司令部の反対のため国会上程にはいたらなかった。
 義務教育費国庫負担制度の廃止により、義務教育費の教職員給与費はすべて地方の一般財源で賄われることになったが、その結果、義務教育におけるナショナル・ミニマムの水準の確保が困難になり、(1)教育条件の全国的な低下、(2)地域間格差の拡大という事態が生じた。教育条件の低下については、たとえば小学校1学級あたりの教員数が、昭和24年度の1・22人から26年度の1・20人に減少したといわれる。地域間格差については、たとえば昭和27(1952)年度の児童1人あたりの小学校費における東京と茨城の格差が100対53であったといわれる。このため、教育界からは義務教育費国庫負担制度の廃止直後からこの制度の復活を求める声が大きかった。
 また、義務教育の教職員給与費が地方財政に与える圧迫も大きくなり、都道府県の一般財源に対する義務教育教職員給与費の割合は、昭和25(1950)年度の38%から昭和27(1952)年度の44%へと上昇した。そのため、昭和26(1951)年6月には全国知事会議において義務教育費国庫負担法復活を求める決議が行われるなど、地方行政関係者からの声も高まっていった。
 このような教育関係者や地方行政関係者からの要望を背景に、昭和27(1952)年3月に当時の文部省は、標準的な義務教育費のうち各地方団体の財政力に応じた負担分を差し引いた不足分を国庫負担するという内容の義務教育費国庫負担法案を策定した。その後、政府・与党の中での検討・調整を経て、昭和27(1952)年8月、義務教育費国庫負担法が成立し、翌昭和28(1953)年から施行された。
 このようにして制定された新たな義務教育費国庫負担法は、旧国庫負担法の仕組みを基本的に引き継ぐものであったが、給与費等の負担対象職員に事務職員が加えられるとともに、教材費も国庫負担(当初は一部負担、昭和33(1958)年度からは2分の1負担)の対象費目とされた。事務職員が国庫負担に加えられたのは、事務職員が教員と同様学校運営を支える基幹的な職員であり、すでに昭和23(1948)年の市町村立学校職員給与負担法によりその給与費等が都道府県の負担とされていたためである。また、教材費が国庫負担の対象とされたのは、当時問題とされていたPTAの寄付金等の形での教材費の家計負担への転嫁を解消する必要があったためである。
 このような義務教育費国庫負担法の廃止から復活制定に至る歴史は、地方間の一般的な財政調整制度によって義務教育費を確保することは困難であり、義務教育の水準確保と地域間の機会均等を保障するためには義務教育費に目的を特定した国による財源保障制度が必要であったという事実を示している。
 地方財政平衡交付金制度は、義務教育の財源保障機能と一般的な財政調整機能とを混合させたものであり、これら2つの機能を同時に果たすことが求められたという意味では、昭和15年以前の義務教育費国庫負担制度に類似するものだったと考えることができる。しかし、これら2つの機能を同時に求めることの不合理さはたちまちのうちにあらわになった。その結果、改めて義務教育の財源保障制度として、義務教育費国庫負担制度を確立することになったのである。もう一方の財政調整制度の方は、昭和29(1954)年に地方交付税制度として導入された。
 総務省が現在進めようとしている義務教育費国庫負担金全額の税源移譲による一般財源化は、(1)義務教育の財源保障機能と(2)地方間の財政調整機能とをもう一度混合させ、地方交付税制度の中にこれら2つの機能を同時に求めようとする試みである。それはすでに2度実施し、2度失敗しているものなのだ。

(7)全額国庫負担制度の構想
 義務教育の教職員給与費について、その全額を国庫負担するという構想は、戦前の民政党の政策の中にも見られたものであるが、戦後も2度にわたって浮上している。
 このような構想が戦後初めて発表されたのは、昭和21(1946)年1月、前田多門文部大臣の下で田中耕太郎学校教育局長を中心に策定された地方教育行政機構刷新要綱においてである。この構想は、フランス、イタリアの制度にならい、全国を大学を中心とする学区に分かち、公立学校の教職員給与費を全額国庫負担するというものであった。
 2度目は、岡野清豪文部大臣の下で作成され、昭和28(1953)年2月に国会に提出された義務教育学校職員法案である。この法案では、義務教育諸学校の教職員を全て国家公務員とし、その給与費は定員定額によって全額国庫負担とすることとされた。この法案は同年3月の衆議院の解散に伴い廃案となった。
 このように、全額国庫負担の構想は存在したが実現を見ることはなく、2分の1国庫負担の制度は今日まできわめて安定した制度として、その役割を果たしてきている。それは、結局2分の1という定率で国が負担することにより、いわば都道府県との「割り勘」で必要な義務教育費の全額を保障する制度だからである。義務教育の財源保障と地方間財政調整とをきちんと区別するためには、やはり本来全額国庫負担こそが望ましいと考えられる。
 それは、三位一体の改革という今日的課題に照らして考えた場合、地方交付税制度から財源保障機能を分離し、財政調整制度に純化することによって、地方財政の総務省への依存体質を払拭し、真の意味での地方財政の自立性を確立することに直結するものでもあるといえよう。
(つづく)

前川喜平〔(まえかわ・きへい)文部科学省初等中等教育企画課長〕


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